深谿の修養
どんな伝承か
明治四十三年十一月の天長節の朝、著者は写真機を背負わせた書生を連れて松本市を発ち、雪をかぶった焼岳を目指した。松本平を横切って南安曇郡島々村に着き、正午ごろ、上高地温泉出張所の好意で提灯まで借りて、上高地温泉へ抜ける徳本峠に挑んだ。道のりは登りが四里、下りが二里の合わせて六里の難路である。霜柱の崩れる危うい道を登りながら、滝のそばでは日蓮を、巨岩を仰いでは空海をしのび、所々で修養の跡を残した。谷川の尽きるあたりでは、斧を入れられたことのないような樅などの老木が谷を覆い、昼でも薄暗かった。峠の頂に着くころには夕日が沈みかけ、目の前には新雪の穂高岳、左手には焼岳と硫黄岳が連なっていた。著者は雪の上にうずくまってしばらく瞑目し、酔ったような心地になったが、日暮れを案じる書生の声で我に返ったという。
原典より
修養せる場所と云ひ四邊の状況と云ひ、正に神境てある—— 修養と通力(高橋宮二(逐堂生)・1913年(大正2年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
修養と通力(高橋宮二(逐堂生)・1913年(大正2年))
『修養と通力』は、高橋宮二が著し、大正二年に東京宝文館から発行した、深呼吸による精神修養と千里眼の実験の記録である。第一編「実験四年」は、修養の方法と焼岳での雪中の修養を述べ、千里眼の能力を得た妻貞子を明治四十三年から四年間養い、福来友吉博士らの立ち会いで透視と念写を試みた経過を記す。第二編「山の趣味」は附録の紀行で、北アルプスの大黒鉱山で雪中に半年埋もれた人夫六人の遺体を片付けた顛末と、黒部谷や中津川への旅を収める。