長尾郁子の千里眼実験と学者の失態
どんな伝承か
四国丸亀の長尾与吉判事の夫人郁子は千里眼の持ち主として知られ、学者たちが海を渡って実験に訪れた。念写の実験では、乾板の調製と提供を受け持っていた藤・藤原の両理学士が肝心の乾板を用意しないまま念写を求め、乾板が無いことを郁子に透視で見破られた。玄関に置いた写真フィルムの紛失騒ぎもあって実験は中止され、両学士は自分たちに不利な点を伏せた千里眼実験録を出した。憤った郁子は学士に決闘を申し込んだとも噂され、やがて病に倒れて無念のうちに亡くなった。長尾家の人々は恨みをラッパ節の戯れ歌三首に託して知人へ送り、郁子の歌が絶筆になったという。
原典より
抑も彼の實驗は念寫の實驗てあつて、藤藤原兩學士は實に其最重要なる材料の調製と提供との重大なる任務を帯びて居たのであつたのであるが、…—— 修養と通力(高橋宮二(逐堂生)・1913年(大正2年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
修養と通力(高橋宮二(逐堂生)・1913年(大正2年))
『修養と通力』は、高橋宮二が著し、大正二年に東京宝文館から発行した、深呼吸による精神修養と千里眼の実験の記録である。第一編「実験四年」は、修養の方法と焼岳での雪中の修養を述べ、千里眼の能力を得た妻貞子を明治四十三年から四年間養い、福来友吉博士らの立ち会いで透視と念写を試みた経過を記す。第二編「山の趣味」は附録の紀行で、北アルプスの大黒鉱山で雪中に半年埋もれた人夫六人の遺体を片付けた顛末と、黒部谷や中津川への旅を収める。