お札降りと民衆の狂乱
どんな伝承か
慶応三年、伊勢大神宮のものとされるお札が天から降るという騒ぎが東海道筋に始まり、街道沿いに広がって、九月末には伊那街道の宿場にも及んだ。お札を迎えた家ごとに祝いの酒盛りが開かれ、宿場の大沼嘉蔵の家には北町の人々が三、四十人も踊り込んだ。嘉蔵の日記が途切れた後は、上穂村横厩の市郎右衛門の日記が跡を伝える。十一月十日に高鳥谷神社へ金の御幣が降ると東伊那の五か村が祭りを営み、その夜、村の若者たちが「ヤッチョロ」の掛声で明け方まで踊り騒いだ。踊りは近くの村々にも広がったが、十一月二十九日に銀松の家へ降った記事を最後に、この地のお札降りの記録は絶えている。
原典より
主には伊勢大神宮のお札であったらしいが、それがどこからともなく降りかかり、拾った人々は奇瑞としてあがめたが、次第に民衆の興奮を誘い、遂には「ええじゃないか」の大衆的狂乱をひき起こした。—— 駒ケ根市誌 近世編 お札降り(駒ケ根市誌) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
駒ケ根市誌 近世編 お札降り(駒ケ根市誌)
『駒ケ根市誌 近世編 お札降り』は、『駒ケ根市誌』近世編のうち、幕末の世情と「お札降りと民衆の狂乱」を記した一節である。慶応期の凶作と米価騰貴のなかで起きた吉五郎一件、松本平の打ちこわし、伊那谷の小作争議に続いて、慶応三年秋に赤須・上穂の宿場や村々へ伊勢大神宮の御祓などが降り、酒宴やヤッチョロ踊りの狂乱に広がったさまを述べる。上穂町の「大沼日記」と上穂村の「横山日記」を引いて日を追ってたどり、大政奉還から戊辰戦争へ向かう政局に結ぶ。