山中宿の町にまかれた神仏の札
どんな伝承か
慶応三年九月、講武所頭取で遊撃隊長の今堀登代太郎に率いられ、幕臣の堤氏は江戸を出て東海道を上った。程ヶ谷、小田原を過ぎて箱根の山を越え、山中の宿まで来たところで、一行はええじゃないかの騒ぎに出くわした。堤の手記によると、誰の仕業とも知れず「御降り」と称して神仏の札が町なかにまかれ、札の降った家は酒や供え物をととのえて祭りを行うので、そういう家が宿の半分以上を占めていた。どの家も青竹にしめ飾りを付けていて、何とも言いようのない奇怪なありさまだったという。
原典より
当時何者のなせしにや、御降りと稱して神佛の符を市街にまき、此符の降下る家は饌酒を備へて祭典を執行するなれば、此の如き家市中過半を占め、…—— 日本社会経済史の諸問題-維新の御札降り(土屋喬雄) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
日本社会経済史の諸問題-維新の御札降り(土屋喬雄)
『日本社会経済史の諸問題-維新の御札降り』は、土屋喬雄の論集『日本社会経済史の諸問題』のうち、昭和六年に『中央公論』へ発表した論考「維新のお札降り」を収めたものである。慶応三年秋から京都・大阪を中心に起こり、東海道や江戸、淡路、高松にまで広がったお札降りと「えいぢやないか」の騒ぎを、大隈重信らの目撃談、幕臣の手記、流行唄、年表類から描く。騒ぎの背景に開港後の物価騰貴と王政復古への期待を見て勤王派の関与を論じ、末尾に次章の冒頭が続く。