慶応三年刈谷町のお札降り
どんな伝承か
慶応三年の刈谷では、町々に疫病がはやり、ひどく困窮した百七十四人が施しの米を受けていた。その年の九月、刈谷の町や周りの村々に、神仏のお札が次々と降り出した。最初に降ったのは九月十五日で、十月にもっとも多く、十一月四日にようやく止んだ。降ったお札は九月に七十五枚、十月に百二枚、十一月に十四枚、合わせて百九十一枚にのぼる。この年は豊作が見込まれていたこともあって人々は浮き立ち、お札が降るたびに七日七晩の祭りを重ねたという。刈谷町には文政十三年にもお札降りがあったが、このときほどの騒ぎにはならなかったとされる。
原典より
その九月から刈谷の町や村々に神仏のお札がしきりに降り始めた。—— 刈谷町庄屋留帳 第18巻(刈谷町庄屋留帳) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
刈谷町庄屋留帳 第18巻(刈谷町庄屋留帳)
『刈谷町庄屋留帳 第18巻』は、刈谷町の庄屋の留帳を収めた刊本の第十八巻から、巻の解説の一部を写したもので、写しは神楽山騒動の段の途中から始まる。慶応三年九月から十一月にかけて刈谷の町や村々に神仏のお札が降り、人々が七日七夜の祭りを繰り返したことを、疫病の流行や施米・施粥とあわせて述べ、文政十三年の例とも比べる。慶応四年二月の刈谷藩家老殺害事件の書き出しで文が切れ、降ったお札の種類と月ごとの枚数の表(計百九十一枚)が末尾に付く。