焼岳火口を覗いて撮影
どんな伝承か
袖分峠から焼岳の頂上を目指した著者と書生は、夏の登山者の足跡が霜柱に消されて道を失い、噴煙を目当てに凍った火山灰の断崖をまっすぐ登ることにした。頂上まで二十間のところからは命がけで、著者が先に登り切り、麻縄で書生を引き上げた。それでも噴火口のふちを見たいという思いが抑えられず、止める書生に縄の端を支えさせ、腰を縛った縄だけを頼りに火口の大きな裂け目まで下りた。飛騨側に開いた長方形の火口からは黄褐色の煙が轟音とともに噴き出しており、著者は伏せた姿勢で上半身を突き出して写真を一枚撮ったという。
原典より
折角此所迄漕ぎ付けて一枚の寫眞をも撮り得ないてはと、寧ろ泰然として寫眞器を動かし先づ一枚はビットに収め得た—— 修養と通力(高橋宮二(逐堂生)・1913年(大正2年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
修養と通力(高橋宮二(逐堂生)・1913年(大正2年))
『修養と通力』は、高橋宮二が著し、大正二年に東京宝文館から発行した、深呼吸による精神修養と千里眼の実験の記録である。第一編「実験四年」は、修養の方法と焼岳での雪中の修養を述べ、千里眼の能力を得た妻貞子を明治四十三年から四年間養い、福来友吉博士らの立ち会いで透視と念写を試みた経過を記す。第二編「山の趣味」は附録の紀行で、北アルプスの大黒鉱山で雪中に半年埋もれた人夫六人の遺体を片付けた顛末と、黒部谷や中津川への旅を収める。