袖分峠の氷結と記念文詞
どんな伝承か
焼岳に登る朝、著者と書生は午前六時に上高地温泉を出て、噴火口の煙を目当てに道のない熊笹の中を西へ進んだ。宿の主人は途中まで見送り、案内人がいないのだから決して無理をするなと繰り返し注意した。十一時ごろ着いたのは袖分峠という信州と飛騨の分水嶺で、冬は人の通らない峠だった。あたりには湯煙が立ちこめ、前夜の雨のためか木々の小枝が水晶のような氷に包まれていた。峠には長野大林区署の硫黄ヶ岳・焼岳登山口の標杭があり、周りの木の皮には探険隊員らの記念の文句が刻まれていた。著者も標杭の余白に、明治四十三年最後の探険者と書き記したという。
原典より
昨夜此邊に降雨ありしか木々の小枝は皆な水晶の如く氷を以て包まれて居たのは奇觀てあつた—— 修養と通力(高橋宮二(逐堂生)・1913年(大正2年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
修養と通力(高橋宮二(逐堂生)・1913年(大正2年))
『修養と通力』は、高橋宮二が著し、大正二年に東京宝文館から発行した、深呼吸による精神修養と千里眼の実験の記録である。第一編「実験四年」は、修養の方法と焼岳での雪中の修養を述べ、千里眼の能力を得た妻貞子を明治四十三年から四年間養い、福来友吉博士らの立ち会いで透視と念写を試みた経過を記す。第二編「山の趣味」は附録の紀行で、北アルプスの大黒鉱山で雪中に半年埋もれた人夫六人の遺体を片付けた顛末と、黒部谷や中津川への旅を収める。