焼岳の雪中登攀が導いた千里眼
どんな伝承か
明治四十三年七月、恩人の邸で深呼吸の修養に目覚めた著者は、都会の騒がしさの中では霊妙な境地に至れないと考え、古来の高僧が深山で修行したように、日本アルプスのような霊境で修養したいと思い立った。この思いがきっかけとなり、同年十一月、信濃と飛騨の国境にある大噴火山の焼岳へ、雪の中を冒険そのものの登攀を敢行し、噴火口のほとりで丹田の気を養った。著者が持ち帰った修養の記念写真などを見せたことが、修養に励む妻への強い暗示と刺激になり、やがて一人の婦人に千里眼の力が現れる原因になったという。
原典より
即ち此興奮は遂に大なる動機を作りて其の年十一月には信濃飛騨國境の大噴火山燒岳坑邊に冒険極まれる雪中登攀を断行して、…—— 修養と通力(高橋宮二(逐堂生)・1913年(大正2年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
修養と通力(高橋宮二(逐堂生)・1913年(大正2年))
『修養と通力』は、高橋宮二が著し、大正二年に東京宝文館から発行した、深呼吸による精神修養と千里眼の実験の記録である。第一編「実験四年」は、修養の方法と焼岳での雪中の修養を述べ、千里眼の能力を得た妻貞子を明治四十三年から四年間養い、福来友吉博士らの立ち会いで透視と念写を試みた経過を記す。第二編「山の趣味」は附録の紀行で、北アルプスの大黒鉱山で雪中に半年埋もれた人夫六人の遺体を片付けた顛末と、黒部谷や中津川への旅を収める。