吉田宿助郷騒動(第一次打ちこわし)
どんな伝承か
慶応三年三月七日、吉田宿助郷の三河国宝飯郡鍛治村地内稲場に、小坂井村権四郎・篠束村藤左衛門・瓜郷村金助・下五井村吉三郎ら四五名が徒党を催し、鯨波をあげほら貝を吹き立てた。かねて申し合わせた同宿四十か村余の農民およそ二千余人が集まり、手に手に得物を携え、重立った者は白衣で馬上にまたがり竹槍をふるって指揮した。その夜には日勤惣代役正岡村権右衛門と助郷惣代五右衛門の居宅を打ち砕き、翌八日からは横須賀村ほか五か村の同役の家や土蔵を壊し、蓄えの雑穀まで堀溝に投げ込んだ。
原典より
* 助郷騒動の衝撃* 豊作の予兆* 「天下に人なし」* **VI 「ええじゃないか」への転化*** 吉田宿の御札降り* 西への波及――三河* 七日七夜の祭礼* 名古屋の新史料――「青窓紀聞…—— ええじゃないか始まる(田村貞雄・現代(歴史研究)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
ええじゃないか始まる(田村貞雄・現代(歴史研究))
歴史学者・田村貞雄による、1867年(慶応3)の民衆運動『ええじゃないか』の起源を三河地方の御札降りから検証した歴史研究『ええじゃないか始まる』。伊勢神宮などの御札(御祓)が空から降る『御札降り』を発端とするこの運動の最初期を、従来説より早い7月中旬の牟呂村(豊橋)に特定。神職の記録『留記』を分析し、慶応3年7月14日大西村での御札降り、子と妻の死、宮司森田光尋による『二夜三日正月』の決定と開始、各地への祭礼の波及を辿る。