明和御鍬祭の伝承
どんな伝承か
「留記」には曽祖父から伝えられた明和の御鍬祭の記事がある。明和四年四月、志摩国伊雑宮の御祓が諸国へ勧請されて大流行し、牟呂でも曽祖父の淡路光成が惣代を兼ねて東脇市右衛門を召し連れ、市場から船に乗って御祓を受けに参宮した。帰りは市場沖が汐干潟で船が着かず、小船に乗り換えて上陸した。村中三組が総出で出迎え、のぼりを立てて大群集をなし、「オクハサマガゴザッタァ 三百年ハ大ホウ年」と歌いはやして本社に着いた。仮輿を拵えて三組の人家へ神幸し、翌日八幡宮の境内東北の隅に遷座したのが御鍬社である。その折には木鍬二丁を拵え、田打田植の真似をして右の歌をうたい囃したと伝える。
原典より
明和四年亥四月志摩国伊雑宮之御祓諸国江勧請(尤一万度之御祓箱也)大流行当牟呂も右之御祓箱(長官伝太夫)両家之御祓を受ヶ二参宮曽祖父淡路光成中間惣代兼而東脇市右衛門を召連市場船二乗(柑子草間近鄉同船)両家江着御祓受ヶ帰ル市…—— ええじゃないか始まる(田村貞雄・現代(歴史研究)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
ええじゃないか始まる(田村貞雄・現代(歴史研究))
歴史学者・田村貞雄による、1867年(慶応3)の民衆運動『ええじゃないか』の起源を三河地方の御札降りから検証した歴史研究『ええじゃないか始まる』。伊勢神宮などの御札(御祓)が空から降る『御札降り』を発端とするこの運動の最初期を、従来説より早い7月中旬の牟呂村(豊橋)に特定。神職の記録『留記』を分析し、慶応3年7月14日大西村での御札降り、子と妻の死、宮司森田光尋による『二夜三日正月』の決定と開始、各地への祭礼の波及を辿る。