ええじゃないか - 牟呂村のお札降り
どんな伝承か
慶応三年七月十四日の夕方、牟呂村の小村である大西村で、多治郎の屋敷に伊勢外宮のお札が舞い降りた。翌晩には同じ大西村の牛頭天王社で、雑木の枝に御鍬信仰の中心である伊雑宮のお札がかかっていた。十六日夜、大西村の惣代二人がこの神異を牟呂八幡宮の神官森田光尋に知らせ、村役人と協議して、文政の御陰参りの例にならい「二夜三日正月」を開くことが決まった。十八日、お札を杉箱に納めて竹竿に掲げた行列が、御鍬祭の古いはやし歌をうたい手踊りしながら天王社から八幡宮へ練り、道々で餅やまんじゅうがまかれた。祭りは二十日まで続いた。
原典より
三河国渥美郡牟呂村・牟呂八幡宮の神官森田光尋の『留記』によると、慶応三年七月十四日の七つ時(午後四時頃)、牟呂村の一部である大西村の多治郎屋敷に伊勢の外宮のお札が降った。—— 愛知民衆運動の歴史 新版 より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
愛知民衆運動の歴史 新版
『愛知民衆運動の歴史 新版』は、愛知の民衆運動の歩みをたどる歴史書の新版である。慶応三年の「ええじゃないか」を扱う節で、三河国渥美郡牟呂村・羽田村に始まる伊勢神宮などのお札降りが、吉田宿、名古屋城下、稲沢・尾西・小牧・江南などへ広がった経過を、神官の留記や村の日記、『丁卯雑拾録』『感興漫筆』などの記録から跡づける。名古屋で降った札の種類と枚数の順位表を掲げ、降札を仕掛けた者をめぐる当時の見方と、騒ぎを担った民衆の姿を論じる。