七月十四日・十五日――子と妻の死
どんな伝承か
慶応三年七月十四日の七つ時分、上牟呂村の一部である王西村(大西村)の多治郎の屋敷に伊勢外宮の御祓が降っていた。通りかかった者も子どもも取り上げず、源三郎屋敷の富吉がこれを組頭の富蔵に届け、さらに清治郎のもとへ持って行った。御師内山八郎太夫の名が書いてあったので二人は大いに疑った。その夜、富吉の八歳になる男の子が病気でもないのに急死した。同じ日の夕暮、王西村の天王社の東に住むトコナベという者も御祓を疑っていぶかしがったが、十三日からおこりを患っていたその妻が、十五日には精神に異常をきたし、夜半になって死んだ。周囲の人々は、二人とも疑ったゆえの神罰だとおそれおののいた。
原典より
* 七月十五日――妻の死* 七月十六日――「二夜三日正月」の決定* 七月十八日――「二夜三日正月」の開始* 各地の「二夜三日祭礼」* 曽祖父からの伝承――明和御鍬祭* 「オクハサマガゴザッタァ」*…—— ええじゃないか始まる(田村貞雄・現代(歴史研究)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
ええじゃないか始まる(田村貞雄・現代(歴史研究))
歴史学者・田村貞雄による、1867年(慶応3)の民衆運動『ええじゃないか』の起源を三河地方の御札降りから検証した歴史研究『ええじゃないか始まる』。伊勢神宮などの御札(御祓)が空から降る『御札降り』を発端とするこの運動の最初期を、従来説より早い7月中旬の牟呂村(豊橋)に特定。神職の記録『留記』を分析し、慶応3年7月14日大西村での御札降り、子と妻の死、宮司森田光尋による『二夜三日正月』の決定と開始、各地への祭礼の波及を辿る。