力石村ら岡崎宿当分助郷の対立
どんな伝承か
慶応元年五月、第二次長州征伐にともなって「当分助郷」が拡大され、旗本大島石川家領の力石村・岩倉村・切二木村など一〇か村が、ほかの三五か村とともに岡崎宿の当分助郷に指定された。ところが人馬を雇い切りにする「雇仕切」の役金を出す交渉で高い負担を要求されたため、村々は宿役人と対立し、「如何敷き義」と不信をつのらせて、領主である石川家の大島役所へ始末書を提出している。助郷の拡大は宿場との軋轢をも生んでいた。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
ええじゃないか始まる(田村貞雄・現代(歴史研究))
歴史学者・田村貞雄による、1867年(慶応3)の民衆運動『ええじゃないか』の起源を三河地方の御札降りから検証した歴史研究『ええじゃないか始まる』。伊勢神宮などの御札(御祓)が空から降る『御札降り』を発端とするこの運動の最初期を、従来説より早い7月中旬の牟呂村(豊橋)に特定。神職の記録『留記』を分析し、慶応3年7月14日大西村での御札降り、子と妻の死、宮司森田光尋による『二夜三日正月』の決定と開始、各地への祭礼の波及を辿る。