長男六合大の夭折
どんな伝承か
教勢の順調な発展のなか、出口王仁三郎と妻すみのあいだには、一九一三年(大正二)八月、はじめて男子が生まれた。王仁三郎はこの長男に、六合大という雄大な名をつけた。しかし六合大は病弱で、わずか七ヵ月余で夭折してしまう。夫妻には当時十三歳の長女直日以下、四人の女児があり、のちにもう一人の女児をもうけたが、ついに男児には恵まれなかった。六合大を失ったことは王仁三郎にとって大きな心の痛手であったらしく、翌年五月には、京北町周辺に住む有力信者吉田竜治郎の三男で十一歳の兌三を養子に迎え、六合大にかわる子として大二と呼んだ。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
出口王仁三郎(村上重良・村上重良・近代民衆宗教史・現代(評伝)/明治〜昭和(対象))
村上重良による出口王仁三郎(1871-1948)の客観的評伝。京都・亀岡の貧農の子・上田喜三郎は、祖父の霊の守護や金神の祟りといった霊異の中で育ち、明治31年の高熊山修業で神人感合に達して宗教者へ転身。長沢雄楯(本田親徳の系統)から鎮魂帰神を相承し、綾部で艮の金神の神がかりにより大本を開いた出口ナオと出会って両教祖の経緯(たてよこ)の仕組みを成す。