有栖川宮の落胤という王仁三郎の出生譚
どんな伝承か
出口王仁三郎の生まれについて、のちのちまで語られた貴種の落胤説がある。母のよねは、かつて伏見の格式ある旅館で女中奉公をしていた。その宿が征討大総督・有栖川宮熾仁親王の定宿だったことから、よねは親王の子を身ごもって村へ帰り、男子を産んだ——というのである。よねは生涯、証しとして親王から授かったという守り刀とお守りを手放さなかったといわれる。維新の動乱を背景にした哀話だが、生家の上田家はもともと家系も定かでない貧農であり、この説は捉えどころのない伝説にすぎない。のちに王仁三郎を皇族の落胤とすることに意味が生じた段階で、教団の内外へ意図的に広められたものだろうと見られている。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
出口王仁三郎(村上重良・村上重良・近代民衆宗教史・現代(評伝)/明治〜昭和(対象))
村上重良による出口王仁三郎(1871-1948)の客観的評伝。京都・亀岡の貧農の子・上田喜三郎は、祖父の霊の守護や金神の祟りといった霊異の中で育ち、明治31年の高熊山修業で神人感合に達して宗教者へ転身。長沢雄楯(本田親徳の系統)から鎮魂帰神を相承し、綾部で艮の金神の神がかりにより大本を開いた出口ナオと出会って両教祖の経緯(たてよこ)の仕組みを成す。