厄神神社の籠り堂に続いた発動
どんな伝承か
明治のなかば、金明霊学会の上田喜三郎は山家村の上谷に修行場をひらいた。厄神神社の籠り堂に信者二十人あまりが集まり、幽斎の行に打ち込むうちに、十七歳の四方春三をはじめ黒田きよ、塩見せいらがつぎつぎと発動しはじめる。十月に喜三郎が四方平蔵をつれて静岡へ長沢の教えを受けに出ると、留守の修行場は手のつけられない有様になった。福島寅之助は自分こそ丑寅の金神だと叫びつづけ、村の者が弁当持参で見物に来るほどだったという。喜三郎が戻ってようやく鎮まったが、修行場は二か月ほどで引きあげとなった。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
出口王仁三郎(村上重良・村上重良・近代民衆宗教史・現代(評伝)/明治〜昭和(対象))
村上重良による出口王仁三郎(1871-1948)の客観的評伝。京都・亀岡の貧農の子・上田喜三郎は、祖父の霊の守護や金神の祟りといった霊異の中で育ち、明治31年の高熊山修業で神人感合に達して宗教者へ転身。長沢雄楯(本田親徳の系統)から鎮魂帰神を相承し、綾部で艮の金神の神がかりにより大本を開いた出口ナオと出会って両教祖の経緯(たてよこ)の仕組みを成す。