山本家受難の歴史
どんな伝承か
天明五年には山本家の田畑が一二二町歩に減っている。飢饉の続いた天明期は土地集積が進むはずの時期であり、約二五町歩の減少は耕作を放棄された土地を手放したためとみられる。寛政三年(一七九一)、総帥の山本惣右衛門は隣村渡橋村の与右衛門を相手取り、狐持ち指定による受難を訴える嘆願書を松江藩に提出した。藩にとっても、狐持ちの田畑が狐田と呼ばれて耕作放棄され荒地となり年貢が減ることは頭の痛い問題だった。藩は郡奉行名で領国一円に「人狐無之儀触書」を発し、寺社奉行名で社家・寺院・山伏の人狐祈禱を厳禁し、関係の祈禱師と仕掛人を厳罰に処した。
原典より
それ以来、山本家の受難の歴史が始まったらしい。—— 出雲の迷信(速水保孝・速水保孝・憑きもの研究・昭和(1970年代)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
出雲の迷信(速水保孝・速水保孝・憑きもの研究・昭和(1970年代))
速水保孝『出雲の迷信』。自ら狐持ちの家に生まれた著者が、出雲・隠岐・伯耆の狐持ち迷信を、家筋の系譜・近世史料・社会経済史の観点から徹底的に解明した憑きもの研究の集大成。第一章では自家が狐持ちとされた悲しみ・隔地心中事件・叔母の嫁入り口の差別を語り、第二章で憑き・狐憑き患者・人狐と狐持ち・おさき・くだ・いづな・とうびょうを概観する。第三章では犬神統の部落・上馬荷の人々・犬神使いの歴史・四国と豊後の犬神を追う。