男装の女たちが踊るヤチョロ踊
どんな伝承か
慶応三年十一月十一日は上天気であった。お札が降ったというので、横前村・湯原村・北方村の男女が残らず、およそ二百人余りやって来たので、これに酒と赤飯を出した。ヤチョロの支度は、女は男髷に結い、眉毛を落として化粧し、晒しの手拭で後鉢巻をして、白地の湯帷子に三尺締め、股引を履いて男のように裾を挟み、御幣を持つ。男の者も男仕度になって同じく御幣を持った。ヤチョロ、尾加芸、長土薩と囃し、俗にヤチョロ踊と唱えて、踊子は男女合わせて九十人余り、ほかに南方のヤチョロ踊りが五、六十人来て、酒と赤飯を出し、前代未聞の大騒ぎの祭りとなったと横山日記は記している。
原典より
俗にヤチョロ踊と唱え、踊子人数男女共に凡そ九拾人余有り、外南方ャチョロ踊人数五、六拾人くる、酒・赤飯出す、前代未聞の大騒ぎの祭りなり—— 駒ケ根市誌 近世編 お札降り(駒ケ根市誌) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
駒ケ根市誌 近世編 お札降り(駒ケ根市誌)
『駒ケ根市誌 近世編 お札降り』は、『駒ケ根市誌』近世編のうち、幕末の世情と「お札降りと民衆の狂乱」を記した一節である。慶応期の凶作と米価騰貴のなかで起きた吉五郎一件、松本平の打ちこわし、伊那谷の小作争議に続いて、慶応三年秋に赤須・上穂の宿場や村々へ伊勢大神宮の御祓などが降り、酒宴やヤッチョロ踊りの狂乱に広がったさまを述べる。上穂町の「大沼日記」と上穂村の「横山日記」を引いて日を追ってたどり、大政奉還から戊辰戦争へ向かう政局に結ぶ。