飯田城下のお札降り事件
どんな伝承か
慶応三年(一八六七)九月二十四日、飯田大門町に豊川稲荷大明神のお札が降った。これが信濃のお札降りにおけるもっとも早い降札である。二夜三日にわたる振る舞いがあり、町内は残らず客に呼ばれた。差しだした祝儀は酒五升、錫四把、鰹節一本、御神酒三升、当百銭三枚であった。鹿塩村の源蔵が書きしるした記録によれば、町中の老若男女に酒・餅・赤飯・茶の振る舞いや銭のほどこしがあり、男は紅とおしろいで女装し、女は羽織・袴に男髷を結い腰物を差して、三味線・太鼓・つづみ・笛を鳴らし「御影」の旗を立てて囃したてた。九月二十七日、町役人は天下泰平・世直しの祭りを藩に願い出て、二夜三日の祭りが免許された。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
長野県史 通史編 第6巻(長野県史・昭和中期~後期(推定))
本書は慶応3年(1867年)7月から慶応4年(1868年)3月にかけて、信濃地方で発生した大規模な「お札降り」現象を記録した歴史文献である。三河渥美郡に始まった札降り現象は東海道沿いに伝播し、名古屋での流行を経て信濃各地に波及した。飯田、高遠、松本、諏訪などの城下町から農村部まで広範な地域で、神社のお札や御幣が降下したと報告され、各地で「豊年踊り」と称される大規模な祝祭が展開された。