減力で現れた大師像
どんな伝承か
嵯峨公会堂の念写実験で、六枚目には何も出ず七枚目が真っ黒になったと報告されたとき、聴衆の中から京都祇園の写真師の濱豊彦が進み出た。濱は乾板を透かして見て、霊の力が強すぎて黒くなっただけで像は写っている、薬品で減力すれば出てくると言い、写真師とともに階下で処理を施した。すると、弘仁十三年に百日の修法をしたころの、四十九歳の弘法大師の姿が浮かび上がった。報告を聞いた聴衆は拍手も喝采もせず、ただ打たれたように南無大師遍照金剛と唱えるばかりで、福来友吉も見たことのない神秘的な光景だったという。
原典より
すると其の言の如く、第四十六図にある通り、実に言語に絶したる立派な大師の御姿――弘仁十三年七月十五日から百ヶ日間御修法の時の御姿、丁度御年四十九歳の御姿が現出したのである。—— 三田光一の念写と透視能力に関する研究記録(福来友吉) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
三田光一の念写と透視能力に関する研究記録(福来友吉)
『三田光一の念写と透視能力に関する研究記録』は、福来友吉の著作から霊能者三田光一を扱う節を抜き出したものである。大正六年の通信による透視実験と、同年の名古屋の県会議事堂、大正七年の尼ヶ崎実科高等女学校、昭和四年末から翌年元日の日本地下水協会、昭和五年の京都嵯峨と牧野家での念写実験を、立会人や乾板の封じ方まで詳しく報告する。地下水協会と嵯峨の実験には著者の感想が付き、前節の透視実験の末尾、霊の幻化の章の序論、ホープ氏の節の冒頭も含む。