白狐の祟りと心経殿に代わる大師の念写
どんな伝承か
船形屋敷に住む者が次々に病むわけについて、土地では白狐の祟りだという説が広まっていた。旧主の田中作治郎が幼いころ、毎夜屋敷に来ていた白狐を宿屋の男衆が犬に殺させ、祖父が塚を築いて白陸大明神として祀ったが、のちに屋敷が売られる際に塚は壊されたという。昭和五年三月十六日、嵯峨公会堂の講演会で三田光一は大覚寺心経殿の念写を求められたが、指定の六枚目には何も出ず、真っ黒に感光した七枚目を減力すると弘法大師の姿が現れた。福来友吉は、一月の透視以来三田に何かの霊が憑いていたと見ている。
原典より
之に就いては「白狐の祟り」と言ふ説が専ら行はれて居る。—— 三田光一の念写と透視能力に関する研究記録(福来友吉) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
三田光一の念写と透視能力に関する研究記録(福来友吉)
『三田光一の念写と透視能力に関する研究記録』は、福来友吉の著作から霊能者三田光一を扱う節を抜き出したものである。大正六年の通信による透視実験と、同年の名古屋の県会議事堂、大正七年の尼ヶ崎実科高等女学校、昭和四年末から翌年元日の日本地下水協会、昭和五年の京都嵯峨と牧野家での念写実験を、立会人や乾板の封じ方まで詳しく報告する。地下水協会と嵯峨の実験には著者の感想が付き、前節の透視実験の末尾、霊の幻化の章の序論、ホープ氏の節の冒頭も含む。