広瀬藩の狐蠱焼打ち
どんな伝承か
出雲の広瀬領内(現・安来市)でも、憑きもの筋に対する弾圧があったと伝えられる。延享四年に没した大宰純の『柴芝園漫筆』には、広瀬侯は出雲の分家の殿様で、狐蠱を甚だ憎み、あるとき全役人に命じて騎兵を大挙動員し、領内にある狐蠱の家をことごとく囲んで焼き払い、その人々を皆殺しにして残す者がなかった、と記される。本居内遠の『賤者考』にも、領主が命じてこの種を絶やそうと多くを刑し放逐したが、なお残った上に、そうした家は富豪が多いため紛れて婚を結ぶ者があって広まった、とある。口碑としては能義郡布部村(安来市布部町)に残り、今も『焼打田』という地名がその焼打ちの跡だという。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
日本の憑きもの――俗信は今も生きている(石塚尊俊・石塚尊俊・民俗学・昭和(民俗調査))
民俗学者・石塚尊俊『日本の憑きもの―俗信は今も生きている』。日本各地の憑きもの俗信を実地調査と文献で体系化した研究の決定版。