赤鱏を海へ逃がした家船の群
どんな伝承か
奈留島の椿浦で大敷網に十八間もの大赤鱏がかかったその日、五島の家船が四十何艘もこの浦に来て、艫を連ねて繋がっていた。小嶺磯吉が家船を見たのはこれが初めてで、彼らは鉾で魚を突くことで知られていた。網を破られずにこの巨大な赤鱏をどう捕らえたものかと網の側が相談しているところへ家船の人々がやって来て、殺して油を搾るからぜひ譲ってほしいと申し出た。しかし網の側はその願いを退け、網を解いて赤鱏を逃がしてしまった。大きすぎて気味が悪かったためだろうと柳田国男は推し量っている。
原典より
殺して取つて油を搾るからと言つたが、到頭彼等の希望を退けて、網を解いて逃がしてしまつたと云ふことである。—— 定本柳田国男集 第3巻(柳田国男・定本柳田国男集) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
定本柳田国男集 第3巻(柳田国男・定本柳田国男集)
『定本柳田国男集 第3巻』は、柳田国男の紀行・日記・随筆を集めた著作集の一巻である。相模・武蔵の村々を歩いた「水曜手帖」、昭和二十三年八月の自序を持つ「北国紀行」、明治四十三年の「五十年前の伊豆日記」、国際聯盟の委任統治委員会に勤めた大正十一年の「瑞西日記」と「ジュネーブの思ひ出 その他」を収める。後半の「菅江真澄」は昭和十七年二月の序を付け、真澄の著述と旅の跡を年を追ってたどり、写真解説を添える。