江戸中を騒がせた門跡の下向
どんな伝承か
文政の二、三年ごろ、東本願寺の門跡が久しぶりに江戸へ下向すると聞いて、江戸も近郷近在も煮えかえるような騒ぎになった。熱心な者は箱根まで出かけ、藤沢から小田原にかけて我も我もと押しかけたという。棒手振を渡世にしていた語り手は、その日は朝から商売を休んで鈴ヶ森の手前まで出て待った。花の頃の風のない暖かな日で、干潮に近い洲には海苔しびが並び、採る者もないので白い鷗が我が物顔に遊んでいた。沖は潮曇りにどんよりと曇り、その間から房州の山が薄く見えている。やがて念仏の声が波のように湧き、行列が現れると、人々は前へ前へと出て真直には進めなくなった。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
日本の怪談(二)(田中貢太郎・日本の怪談シリーズ)
『日本の怪談(二)』は、田中貢太郎が書いた怪談・奇談の短編集である。著者が「私の村」と呼ぶ土佐の海村の迷信を語る「鷲」のほか、高岡郡や長岡郡、野根山など土佐の話を多く含み、越中の放生津や立山、銚子の利根川口、京の寺町、摂津の味泥、館林の城下、江戸の碑文谷などを舞台に、蟹や蛇の怪、鮭の祟り、山姑、亡者宿、切支丹の妖術を物語の形で書く。「蟹の怪」から「鶏物語」まで二十八篇を収め、友人や土地の人から聞いた話として語る篇もある。