ナオの墓を皇陵類似で改変
どんな伝承か
大本教が日刊『大正日々新聞』を買収して宣伝力を急拡大させると、当局はいよいよ圧迫を加重してきた。警察は、開祖・出口ナオの墓の墳丘の形状が皇陵に類するとして、外形の変更を強要した。墳丘を築く埋葬は古代の日本で広く行なわれ、けっして天皇・皇族に固有の形式ではなかったが、当局は外見上の類似が天皇の宗教的権威を損なうことを恐れ、ナオの墓を方形三段に変形させた。さらに墓にある『大本教祖』の文字を削るよう要求してきたため、やむなく墓標をやめて小松を植えることになった。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
出口王仁三郎(村上重良・村上重良・近代民衆宗教史・現代(評伝)/明治〜昭和(対象))
村上重良による出口王仁三郎(1871-1948)の客観的評伝。京都・亀岡の貧農の子・上田喜三郎は、祖父の霊の守護や金神の祟りといった霊異の中で育ち、明治31年の高熊山修業で神人感合に達して宗教者へ転身。長沢雄楯(本田親徳の系統)から鎮魂帰神を相承し、綾部で艮の金神の神がかりにより大本を開いた出口ナオと出会って両教祖の経緯(たてよこ)の仕組みを成す。