王仁三郎五銭で京都へ遊学
どんな伝承か
日露戦争下の一九〇五年(明治三十八)、綾部で幹部や信者から圧迫され憂悶の日を送っていた上田王仁三郎は、神職の資格を得て他日を期そうと考えた。おりしも京都の一条烏丸に皇典講究所の分所が神職養成機関として設けられたので、王仁三郎は同年九月、その第一期生として入学した。綾部で妻子に別れを告げた王仁三郎は、わずか五銭を懐中に京都へ向かったが、途中まで見送ってきたあさの、うめのの二人の女児に、二銭で菓子を買ってやり、残る三銭だけで出立したという。すでに三十六歳で妻子ある身でありながら、木綿の着物に小倉の袴で熱心に勉学した。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
出口王仁三郎(村上重良・村上重良・近代民衆宗教史・現代(評伝)/明治〜昭和(対象))
村上重良による出口王仁三郎(1871-1948)の客観的評伝。京都・亀岡の貧農の子・上田喜三郎は、祖父の霊の守護や金神の祟りといった霊異の中で育ち、明治31年の高熊山修業で神人感合に達して宗教者へ転身。長沢雄楯(本田親徳の系統)から鎮魂帰神を相承し、綾部で艮の金神の神がかりにより大本を開いた出口ナオと出会って両教祖の経緯(たてよこ)の仕組みを成す。