耀盌の作陶
どんな伝承か
六年八ヵ月の獄中生活で健康も衰えた出口王仁三郎は、保釈出所後、亀岡の中矢田農園の質素な居宅に落ち着いた。二年余の休息期間をもったのち、敗戦前年の昭和十九年十二月二十九日から、多年鬱屈したものを一気に噴きあげるような激しい情熱で作陶に取り組んだ。資材が何もかも不足するなか、多いときには一日に三、四十点を焼き、昭和二十一年八月に病床につくまでの短期間に三千六百点に及んだ。のちに耀盌と名づけられたその作品は原色を交えた明るく奔放な色調で輝き、王仁三郎はこれを大本の神代焼と呼んだ。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
出口王仁三郎(村上重良・村上重良・近代民衆宗教史・現代(評伝)/明治〜昭和(対象))
村上重良による出口王仁三郎(1871-1948)の客観的評伝。京都・亀岡の貧農の子・上田喜三郎は、祖父の霊の守護や金神の祟りといった霊異の中で育ち、明治31年の高熊山修業で神人感合に達して宗教者へ転身。長沢雄楯(本田親徳の系統)から鎮魂帰神を相承し、綾部で艮の金神の神がかりにより大本を開いた出口ナオと出会って両教祖の経緯(たてよこ)の仕組みを成す。