武蔵、吉岡伝七郎を撃ち殺す
どんな伝承か
宮本武蔵は二十一歳の時、京都に出て将軍家の師範役・吉岡家に試合を申し入れた。当時吉岡家は清十郎が家を継いで名声を上げていた。武蔵は清十郎と洛外の蓮台野で試合し、一撃で絶息させた。清十郎は蘇生したが面目ないと剃髪した。清十郎の弟に伝七郎という大力者があり、兄の恥を雪ごうと武蔵に試合を申し込んだ。武蔵はこの伝七郎とも洛外で勝負し、撃ち殺してしまった。吉岡家の門人らは口惜しがり、清十郎の子又七郎を押し立てて一乗寺下り松での決闘を申し込んだが、武蔵は一人で数十人を相手取り、又七郎を真二つに斬り、門人らをなぎ立てたという。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
観念は生物なり(福来友吉・心霊・念写研究・大正〜昭和(戦前))
観念と身体との関係(物心関係論の歴史・物心相即・観念は生物也・観念活動の規定条件)、「我の能力」と人生(我の能力とは何か 等)を中心に、念写・透視の発見者である福来博士の独自の心理哲学を展開。各項目の冒頭に【日付】【場所】【人物】【状況】マーカー付きで網羅した心霊哲学書。