三田光一の大垣と名古屋の念写
どんな伝承か
三田光一の念写のうち、福来が学術上も無難と認めたものは三つある。大正五年十月十六日、大垣町の日吉座で二千人の観客を前に、地元の写真師が用意した乾板へ大垣城の姿と霊妙の文字を写した。翌年二月十日には名古屋の県会議事堂で、一ダースの六枚目に桂公の肖像を写したが、両隣の二枚を継ぐと至誠の字が現れた。これは二日前に揖斐郡の坪井秀の家で念じながら写らなかった字だった。さらに二月十八日、大垣町の森恭造の家で、福来が封をして郵送した乾板に浅草観音堂の額の南無観世音を写したという。
原典より
右の實瞼が終るこ、直に會場の燈を消して赤燈こなし、河野氏が立會人監視の下に現像したるに、靈妙の文字こ大垣城こが美事に現出した。—— 観念は生物なり(福来友吉・心霊・念写研究) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
観念は生物なり(福来友吉・心霊・念写研究)
『観念は生物なり』は、福来友吉が諸雑誌に発表した論文を集めた心理学と心霊研究の論集で、日本心霊学会刊、序は大正十四年春に箕面山の麓で記されている。観念と身体の関係、夢、潜在精神と病気、プランセット(自動書記)、狐憑病の伝染や尼寺のヒステリー、宮本武蔵の剣道などを論じる。明治四十三年以来接した御船千鶴子・長尾郁子・三田光一ら八人の通力者の透視と念写の実験も報告し、「観念と身体との関係」から「生命学と心霊研究」までの十四篇を収める。