掛軸の陰から覗く娘の顔
どんな伝承か
浅草の北の台東区山谷町は、木賃宿が百軒余り密集する一帯である。南千住の映画館で興行していたチャンバラ劇団の一行が、楽屋がないため泪橋に近い光月館という宿に泊まった。夫婦者の座員のために四畳の一室を一晩ずつ交替で使わせたところ、最初に入った若い役者が、若い女の幽霊が出たと言い出す。試しに座長夫婦が寝てみると、妻が夫と睦む間に突然目を見開き、床の間の掛軸のあたりを指して、変な女がいると口走った。妻はその後四十度の熱を出して三日寝込み、見知らぬ女の夢ばかり見たという。近所で聞くと、この宿には応召した恋人を七年待った娘がいて、戦犯として銃殺されたと知らされて心を病み、近ごろ自害したのだという。
原典より
「――なにしろあった、ひさしぶりに楽屋泊りの気疲れから解放されたンでホッとしたせいか、女房の君は、床へもぐり込むとすぐスヤスヤ寝息を立てはじめたンで・・・・ところが、同じじに疲れてる筈のボクのほうは、なかなか寝つかない・…—— 夫婦生活(1954年3月(昭和29年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
夫婦生活(1954年3月(昭和29年))
本書は1954年3月発行の『夫婦生活』に掲載された、戦後の山谷ドヤ街を舞台とした怪談である。ドサ廻り劇団の座長B君夫婦が木賃宿「光月館」に宿泊した際、妻が性的悦びに浸る最中にのみ、掛軸の背後に現れた若い女の幽霊を目撃するという極めて異常な現象を記録している。この幽霊の正体は、応召中の恋人を7年待ちながら、その恋人が戦犯として銃殺されたという報せで発狂し、最近自害した同宿の娘であった。