夜になるとやってくる男の話
どんな伝承か
著者が二十代初めの頃、小田原のスナック仲間ふみちゃんが自身の体験を語った。夏の夜、恋人と車で久野霊園へ行き、建ったばかりの墓の前で真夏なのに鳥肌の立つ寒けに襲われた。板橋の家の屋根裏のような二階で寝ると、夜中にドアの所に灰色の背広の男が黙って立っていた。男は毎晩現れて日ごとに近づき、十日目には枕元、十一日目には頭上の壁から顔をのぞき込んだ。翌日、世田谷の親戚のおばさんが訪ねてきて、玄関の戸が「逆戸」になっていると嫌がりながら上がり込み、汗を浮かべて寒い寒いと言って帰ると、男は出なくなった。ふみちゃんは、おばさんが背負って行ったのだと言う。二日後の電話でおばさんは、あの日は一日じゅう寒く、真夏なのに身体が重く、すれ違う人に振り返られたが、駅から家へ帰る途中の墓地の前で急に身体が軽くなり、汗が噴き出したと話した。墓の主は、小田原で事故死した元世田谷住まいの四十歳の男だったという。
原典より
四日目よりは五日目、五日目よりは六日目と、その男の立つ位置が、出る度にふみちゃんに近づいてくる。—— 奇譚草子(夢枕獏) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
奇譚草子(夢枕獏)
『奇譚草子』は、夢枕獏が雑誌の連載ページに書き継いだ怪異譚集である。「〜話」と題した短い話二十篇を収め、生霊の手、階下で蹴ったばかりなのに二階に座っていた祖母、雪山の死体、夜ごと来る小人など、多くは友人や知人から聞いた話を著者が聞き手として書き留める。ただし口上で架空の話も混ぜると断り、雪山の死体の話は読者の指摘で翻訳怪奇小説と同じ筋だったと認める続きの回を置く。末尾は箱根に住んだ元関取に憑いてスサノオと名告る存在の話である。