宝応寺の千体仏
どんな伝承か
江戸時代初期、中野や稲荷山を治めていた神保安芸守という殿様は、伊能の宝応寺に奥方を残し、自らは江戸屋敷で将軍に仕えていた。関ヶ原の戦いなどで多忙を極め、なかなか領地に帰れずにいるうち、奥方は心労のあまり病に伏し、殿様が駆けつけたときには手を握ったまま息を引き取ってしまったという。悲しんだ殿様は宝応寺の和尚に弔いを頼み、陸奥国湯殿山の宗休という上人を呼び寄せた。宗休はみずから阿弥陀如来像を彫り続け、半年ほどで千体を完成させて本堂に納めた。これが今に伝わる宝応寺の千体仏だという。
原典より
伊能に着いた宗休は奥方のために早速阿弥陀如来像の彫刻に取りかかり、半年ほどで一千体を完成させて、宝応寺の本堂に納めたのであった。—— 大栄町史 民俗編(大栄町) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
大栄町史 民俗編(大栄町)
『大栄町史 民俗編』は大栄町の町史の民俗編で、ここに収められているのは第六章「ことばと生活」第一節「伝説」の部分だけである。北総台地にある町内の地区ごとに、源頼朝の鞍掛けの松、城主大須賀氏・伊能氏の話、弁天様と道祖神、狐・狸・河童・大蛇の話、作男や長者の話、古墳の埋蔵金の話などを伝える。伝説は歴史・神仏・動物・人物に関する伝説と「トーカとムジナの話」の五項に分けられ、末項では狐に化かされた体験とムジナの火の話を「〇」の箇条で並べる。