赤塚源太郎翁の御像念写
どんな伝承か
昭和二年三月十一日に照国神社で三田光一が行った念写の実験で、六枚目の乾板には赤塚源太郎翁の姿を写す題が出された。翁は姶良郡蒲生村の人で、およそ五十年前に亡くなっており、写真も肖像画も残っていなかった。二人の息子は幼かったため父の顔を覚えておらず、それを惜しんでいた次男の弁護士谷村源助が、親しくなった三田に頼んでいたものである。実験のあと源助はすぐ郷里へ帰り、長年赤塚家に仕えた近所の老人二人に写真を見せたところ、主人が生きているようだと驚いた。翁と親しかった原田老人も、生前そのままだと涙を流して思い出を語ったという。
原典より
実験後、谷村源助氏は直ちに郷里蒲生村に帰り、永年赤塚家に勤めた近所の老人二人を招いて、父上の念写写真を見せられた処、二人共「御主人にそっくりで生きて居られるようである」と驚いたとのこと。—— 九州写壇の回顧より心霊写真(神山紫陽) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
九州写壇の回顧より心霊写真(神山紫陽)
『九州写壇の回顧より心霊写真』は、神山紫陽が九州の写真界を回顧した文章のうち、心霊写真と写真材料を述べた部分である。昭和二年三月、鹿児島市の照国神社で三田光一が島津斉彬・西郷隆盛・赤塚源太郎の像を乾板に念写した実験を、宮司占部真一の寄稿と、現像を受け持った筆者の兄神山富三郎の話によって伝える。立会人・出題・現像の様子・社務所からの透視・写真ごとの説明を順に記し、後段では明治から昭和にかけての乾板の移り変わりを述べる。