検地で生まれた観音堂村
どんな伝承か
大多喜の領主が本多中務大輔であったころ、岩沼高草は石高五十石あまりの御料地で、住む家は一軒もなく、関村に付いている土地という扱いだった。延宝元年と天和三年の二度にわたって検地が入り、そこで観音堂村という独立した村になったとされる。けれども明治九年の地租改正のとき、もとの関村に合わせられ、観音堂村という村の名はなくなった。
原典より
本多中務大輔が大多喜領主の頃、岩沼高草高五十石余の御料地で戸口は無く関村の附属地であった。—— 白子町史 より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
白子町史
『白子町史』は、千葉県白子町の歴史を記した町史である。一ノ荘、五井、驚村、南白亀、観音堂などの地名の由来、源頼朝の駒止橋や御殿山の伝説、宝暦の新川開鑿、驚獅子の雨乞い、田辺万吾や皆川検校の事績、お塚山の伝承を、由来記や家の文書、村誌を引いて記す。地名と伝説を十三の項に分けて述べ、続く第五節には常福寺のらかんまきや白子神社のなぎなどの天然記念物を図とともに載せる。