山賊に加わった交告一族の若者
どんな伝承か
交告一族のある若者は、力はあるが気が優しく、はた織りを好んで武芸に励まず一族に侮られたため家を出て、津橋へ抜ける伊羅久後の険しい岩山に砦を構える山賊の仲間となった。一門の恥と見た交告盛康は朝廷の許しを得て討伐に向かい、謡坂の渡辺久兵衛の家で指揮をとった。久兵衛は天台宗の高僧から還俗した人で、妻は評判の美人だった。若者は隙を突いて奥方をさらったが、近所の人や久兵衛の家の若い衆が棒や袖がらみを手に追いかけ、砦の手前で取り返した。その後も山賊は伊羅久後や鬼岩に拠って悪事を重ねたので、困窮が原因と見て伊羅久後の南の美佐野に田畑と山林を与え、若者も改心させて住まわせた。美佐野の交告氏の起こりだという。
原典より
そのころ久兵衛の奥方は非常な美人であったので、賊に加わっていた若者は、すきを見て奥方をさらって逃げようとした。—— 御嵩町史 民俗編 より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
御嵩町史 民俗編
『御嵩町史 民俗編』は、御嵩町の町史の民俗編のうち、第一〇章「物語・伝説」の冒頭の二節を収めたものである。第一節は、正治元年のころ上之郷の洞穴に住んだという鬼「関の太郎」の退治譚と二つの異説、鬼の首塚・胴塚・手塚・首洗い池の今の様子、幕末の俳人五歩が記した東濃鬼ヶ窟の由来を載せる。第二節は、御嵩で盲目の女性遊芸者を「ごじょ」と呼んだいわれと、薬師の光で盲目になった三少女の由来、明治以後の暮らしを記す。