普賢寺の竹藪で果てた小野城主
どんな伝承か
天正十七年、岩城常隆の軍勢に攻められて小野城は落ちた。城主の田村右馬介清忠は普賢寺の竹藪で腹を切り、奥方と姫は大倉へ落ちのびる途中、川除けという土手のあたりで自ら命を絶ったと伝わる。殿様が果てた竹藪の近くにはマサキ屋という家があり、毎年盆の十六日になるとその竹藪へ線香を上げて供養していたという。小野城の跡は、いま専光寺が建っている山だとされる。城址から半里ほど離れた南東と北西には馬番という地名が残り、落城のとき岩城貞隆と伊達政宗がそれぞれ陣を敷いた場所と語り継がれている。
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
小野町史 民俗編――伝説(小野町(編)・小野町史・自治体史(民俗))
『小野町史 民俗編』第九章所収の伝説。福島県田村郡小野町に伝わる口承を採録する。